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四代「家綱」五代「綱吉」と大奥の関係

「将軍」と「大奥」の生活②

■正室と仲睦まじかったが、たった一人の世継ぎが夭折した綱吉

【綱吉と大奥の主要人物と子女】紫色は正室(御台所)。薄い紫色は側室。桃色は奥女中。

 嗣子(しし)を残さずに没した兄・家綱の跡を継いだのが綱吉(つなよし)である。綱吉は家光の四男であり、生母はお玉(たま/桂昌院/けいしょういん)である。二男亀松(かめまつ)は早世し、三男の綱重(つなしげ)も家綱に先立って35歳で死去したことから、綱吉にお鉢(はち)が回ってきた形だ。

 

 将軍就任時に綱吉は35歳だったため、すでに寛文4年(1664)に結婚しており、相手は鷹司教平(のりひら)の娘・信子(のぶこ/浄光院/じょうこういん)であった。子宝には恵まれなかったが、綱吉と信子は能鑑賞、祭礼見物を一緒に行うなど仲が良く、側室に子が産まれてもそれは変わらなかった。信子は、夫の母・桂昌院とは嫁・姑の関係で仲が悪かったといわれることがあるが、俗説の域を出ない。

 

 綱吉の子をもうけたのは桂昌院に仕えていたお伝(でん/瑞春院/ずいしゅんいん)である。桂昌院はもともと八百屋の娘といわれ、お伝も下級武士の子で、ウマが合ったのかもしれない。綱吉は風呂を炊く薪を運んでいたお伝を見初め、側に召し出したという(『渡辺幸庵対話』杉木義隣)。お伝は延宝5年(1677)に長女鶴姫(つるひめ)を、延宝7年に長男徳松(とくまつ)を出産した。将軍就任の前である。

 

 待望の世継ぎであった徳松だが、綱吉が将軍就任した直後の天和3年(1683)に5歳で夭折(ようせつ)してしまう。このため、鶴姫が嫁いだ紀州徳川家の綱教(つなのり)が次期将軍の有力候補ということになった。だが、宝永元年(1704)に鶴姫が疱瘡(ほうそう)で亡くなり、翌年には綱教も没した。

 

 こうした事態を大奥も憂慮した。桂昌院は、大納言清閑寺(せいかんじ)家の娘とめ(大典侍/おおすけ・寿光院/じゅこういん)と、豊岡家の娘・新助(しんすけ)の方(新典侍/しんすけ・清心院/せいしんいん)を呼び綱吉の側室とするが、綱吉は子を成さずに世を去ってしまう。

 

 一方で、中宮・鷹司房子に仕えた才媛として評判が高く、鶴姫の上﨟として京都から招聘されていた右衛門佐(えもんのすけ)が大奥の取締を担っていた。彼女は公家の娘を京都から呼び、自らの後継者とした。

 

監修/畑尚子、文/上永哲矢

『歴史人』202110月号「徳川将軍15代と大奥」より)

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